北条 小田原城 豊臣秀吉
引用元:(http://www.sengoku.jp.net/kanto/shiro/ishigakiyama-ichiya-jo/)

今回は 難攻不落とされた北条氏の小田原城に豊臣秀吉はどうやって挑んだのかについて、書いていきます。

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名将上杉謙信、武田信玄すらも攻め入ることができなかった難攻不落とされた小田原城が陥落されたのは1590年に、豊臣秀吉によってでした。

 

なぜ小田原城は落とせなかったのか

北条 小田原城 豊臣秀吉
引用元:(http://odawalab.com/report/move4.html)

小田原城は城下町をも含めた城郭を形成し、当時としては類まれなるスケールの大きさによるものであるとされています。

北西を山に囲まれ、南海岸線という強固な守りに何回とない攻めにも屈することはありませんでした。

 

最後は豊臣秀吉の作戦勝ち

北条 小田原城 豊臣秀吉
引用元:(https://ja.wikipedia.org/)

九州を平定した秀吉は、残るは相模のみと小田原攻めに躍起になっていました。
当初の計画では攻め入りではなく、話し合いの元にことを進める計画だったようですが、頑なに拒みました。

天正18年3月、秀吉は22万という大群を引き連れ小田原に向かいます。
上杉謙信や武田信玄さえ落とすことができなかった小田原城ですが、秀吉は長期戦に備え兵糧や武器弾薬を豊富に備蓄し、小田原城を取り囲むように各地方の軍を配備しました。
決してこれまでのような性急な攻め込みをするようなことはなく、包囲して城にこもらせるという作戦に出ました。

 

北条 小田原城 豊臣秀吉
引用元:(http://matome.naver.jp/odai/2141152516622482501)

 

秀吉の軍は周囲網を固めていきます。さらに当時北条氏と同盟関係にあった伊達政宗すらも秀吉の軍の参加に下ってしまいます。
こうなると北条氏の味方となる大名はいなくなり、完全に孤立状態となり、次第に北条氏のの軍内の士気も落ちてしまいます。

すでに士気が落ちた北条軍にさらなる仕打ちを秀吉は打ちます。

小田原城から3kmほど離れた場所の山上に突如秀吉の城が姿を現します。
これが有名な「石垣山一夜城」です。
想像をはるかに超えた作戦にますます士気が下がった北条軍は最後まで抵抗はしたものの、落城する結果となりました。

 

鳴かせてみせようというのは綿密な計画と確固たる自信によるもの

難攻不落の城として100年の歴史をもった小田原城も、綿密な計画で着実に攻め入る秀吉のもとでは落ちざるを得ませんでした。

ホトトギスの歌で例えられた

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」

とは、鳴かぬのなら、鳴かせるための綿密な計画を立て、その計画を確実に遂行させることができるという確固たる自信を読んだ句なのかもしれませんね。